アメリカ合衆国には法で定められた公用語はないが、建国の歴史から英語が事実上の国語となっている。2003年には、約2億1500万人(5歳以上の全国民の82%)が家庭で英語のみを使用している[23]。 英語を母語としない国民でもほとんどが英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。スペイン語の話者は英語についで多く、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある。[24][25]。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっているものも多い。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、中には絶滅した言語もある。アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、現在30州が英語を公用語に指定している[26]。また、ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた [27][28][29]。プロテスタント58%、カトリック21%、など(2003年現在)。キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。2001年の宗教分布は、プロテスタント 52%、カトリック 24.5%、ユダヤ教 1.3%、その他、イスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教、ユニテリアン (Unitarian Universalist) がそれぞれ0.5%から0.3%である。無宗教は13.2%。なお、アメリカ合衆国の現代キリスト教も参照。
また、内容上の分類ではないが、後世に残すことが難しくなっているか、その強い懸念が存在する場合には、該当する物件は危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)に加えられ、別途保存や修復のための配慮がなされる事になっている[2]。1960年代、エジプトのナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムを建設する計画が持ち上がった。このダムが完成した場合、ヌビア遺跡が水没することが懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始。世界の60ヶ国の援助により、技術支援、考古学調査支援などが行われた。ヌビア遺跡内のアブ・シンベル神殿の移築が行われ、これがきっかけとなり、開発から歴史的価値のある遺跡、建築物、自然等を国際的な組織運営で守ろうという機運がうまれた。1972年11月16日、ユネスコのパリ本部で開催された第17回ユネスコ総会で、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立。1973年、アメリカ合衆国が第1番目に批准、締結。20ヶ国が条約締結した1975年に正式に発効した。
1894年から1991年までアメリカ側では、崖から船着場への行き来はインクラインが使われていたが、観光客が増え始めた1990年代にあたる1991年にエレベーター4台へと置き替わった。運航期間は、4月中旬から例年10月24日まで。運航開始日は春先、エリー湖から流れてくる氷が流れきってから、が目安になるため、毎年異なる。観光船の名前はローマ数字が霧の乙女号の名の後ろに付けられている。現在の保有数は4隻。
スー族やブラックフット族に代表される平原インディアンの社会は、高度な個人主義の文化を持っていた。彼らの社会には、今も昔も全部族員が盲従するような「国王・皇帝」的な支配者は存在しない。戦いにおいても、戦士たちはすべて自分の判断や意志で戦うのであって、戦略や戦法を指示し、戦を率いる「ウォー・チーフ」と白人が呼ぶような存在は平原部族にはいなかった。重要事はすべて、完全対等な「文・武」双方を代表する酋長たちの合議で決定した。平原部族には、誰かが誰かに「命令する」という文化はない。これを知らない白人たちは、西部に押し寄せた際に、彼らの頂く大統領のような、絶対的な権限を持つ「全部族大酋長(そんなものは存在しない)」と条約交渉を結ぼうとした。しかし、仮に「A」という酋長が白人と何かの約束事に賛同しても、それは「B」や「C」ほかの酋長とはまったく関係のないことであり、部族全体に何ら影響しないものだった。レッド・クラウドなどは、まさに白人が「大酋長」と勝手に決めてしまった存在であって、彼がいかに「ララミー砦条約」などで署名をしたとしても、彼は一介の部族員にすぎず、ましてや合議を経ていない以上、部族全体にとっては何の意味もなさなかった。19世紀の「開拓の時代」の、白人は「酋長と取り決めをしたのに、部族員が従わない」としてインディアンを、インディアンは「白人には何人代表者がいるのか、無理やり約束をさせておいて来るたびに違うことを言う」として、互いに「嘘つき」呼ばわりするという対立構図の根底には、そもそもがこれら相反する文化の違いがあった。そしてそれは、「グラッタンの虐殺」のように、家畜をめぐる些細な諍いから酋長たちが虐殺されるような悲劇を数々生んでいる。